2018.1.22 第14話

Telemarkski - つづき

つづきを書く気は無かった。「俺たちは自由だ〜〜〜!」で始まったはずなので、あとはご自由に。というつもりだったのだが、翌日の三段山クラブの「ぴっぷナイター練習会」なるもので、一緒にリフトに乗る相手を間違えた。オオニシ君だ。「あのつづきは書かないんですか〜?あれで終わられると消化不良ですね〜。」と。感性がないんだな〜。行間を読むというか、その先は各々が勝手に想像して欲しかったのだが、しょうがない。「つづき」というよりは、その「自由の周り」を膨らましてみようかな。
 
手に入れた道具は、top72mm center58mm L200cmのシングルキャンバーにリーバケーブル+革靴紐じめ(2バックル)ほとんどクロカンの板にカンダハです。ま〜、papaの幼少期に父が履いていた道具とほぼ同じだ。つまり30年前の時点でさらに30年前の道具に戻ったわけだ。そして、その道具で当時のスキー場に行っても「私をスキーに連れてって」の頃ですから、もう周りは、道具もファッションも「ゲレンデのスタイル」がしっかり確立されていたわけで、奇妙に映っていたのは今度はpapaの方だったのだ。その奇異な目がまた心地よかったりもするのだが、、、。
 
当時はバブル真っ只中で、あらゆる物が満ち満ちて溢れていた。世の中全体が暖衣飽食というのか、このままでいいのだろうか?と。papaを含めて、その飽食に対してもっと簡素にシンプルに、削ぎ落とされた「何か?」を求める人たちが徐々に覚醒しだしていたような気がする。スキーも、踵を固定することが安定を生んでいたアルペンや山スキーの道具。大げさだが、その踵を解放することで、その「何か?」が見えてくる気がした。そう、「ヒールフリー」。この言葉の響きも魅力的だった。
 
スキーの滑走道具として新たなるものを求めたのではない。簡素でシンプルな「自由な道具」を、まさに、夏に手に入れたカヌーシーンの冬版を求めたのだ。雪の野山に出かけ、雪の上でテントを張り、仲間と飯を食い酒を飲み泊まる。単純で、なんと自由なんだろう。ウサギが跳ねた後だけが見える真っ白な雪原。たっぷりの雪の衣に身をまとった、赤エゾマツの原生林。誰のシュプールもないダケカンバの疎林。その斜面を一気に滑りだす。雪まみれになり頭から雪に突っ込み転げおちる。「子供の頃のスキーはこうだった!あの頃に帰ったみたい!」「わっはっは!わっはっっは!」まさに、心は子供に戻ってしまうのだった。
 
時には「もう登らなくていい場所」つまり峰々の頂にも立った。もちろんテレマークの革靴で。アイゼンを付けピッケルを持ち氷の壁も登った。この頼りない道具がゆえに、其々の体力や技術、ルートファインディングの差が顕著に現れるのが、面白く楽しい。仲間みんなの目が、歯が、白く輝いていたのだ。決して懐古趣味ではないのだが、純粋で元気だった。
 
でも、どうしてだろう?また、徐々に、人々は「滑りやすい道具」「安定した道具」を求め始めるのだ。革だったブーツはプラスティックになり始めるのだ。ビンディングは硬さが求められ、板はどんどん太くなる。奇想天外な形状の板が溢れ出す。いかに早く、いかに浮くか。より心地よいターンと異次元の浮遊感を求めて、、、。papaもまた憚かることなく、同じ流れの中にいたのだが、、、
 
最近、ふと思うことがある「あの頃に似てないか?」
 
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